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 咳の神

(1) 社宮司社

 俗称「おしゃもじさま」である。風邪・喘息・百日咳などで咳に悩む人がこの社に上げてあるおしゃもじを持って帰り、喉を撫でると効き目があるといわれる。快癒すると今度は二本にしてお礼する。この神は社宮司、社宮神、遮愚璽、杓子、舎句子、石護神、赤口神などと色々に書かれている神である。社宮司は音が杓子と似ているので「しゃもじ」に転じたので、このような様々な字で表現されているものであろう。
 社宮司社は武蔵国を東限とし尾張・伊勢・飛騨の各国を西限とする地域に分布し、武蔵・相模の両国には四十社に近い数が見られた。御社宮司の祭は諏訪大社の重要な行事とされていることから知られるように、信濃国の諏訪大社の信仰圏内にこの神が分布している。
三郡中の社宮司社の例を挙げる。


・久良岐郡神奈川領芝生村(横浜市西区浅間町)
「洪福寺 社宮司社 客殿に向いて左にあり。当寺の境内もともと此の宮の為に免除せられしなど云えば、旧くよりありし社なるべし」
 洪福寺では、咳の神ではなく、眼病治癒の神であるといっている。
 現在、洪福寺の南約二百米の帷子川沿いにある社宮司公園という小公園に名前を留めている。


・久良岐郡本牧領根岸村(横浜市中区根岸町)
「社護子社 村の東にあり」
小祠が現存している。


・橘樹郡神奈川領生麦村(横浜市鶴見区生麦)
「社宮神社 往還の西側にて、字石神井畑の中にありて道敷のうちなり。祭神詳かならず。土人咳を煩うもの願をかくるに利益ありという。小祠なり。村持ち」


・橘樹郡神奈川領岸根村(横浜市港北区岸根町)
「蛇骨神社 北の田間村境にあり。相伝う、篠原村の内、小名蛇袋といえる所にて蛇を殺し持ち来たりてここへ埋め、その跡へ此の祠を建てたりと、又の伝えに当村開闢のおり、弓を射て矢の落ちたる処を村境とせんと射たりけるに、此の処へ矢の落ちたれば、ここへこの祠を造れりとも云う。是れもうけがたきことなり」
 この社は社宮司社、蛇苦止明神とも呼ばれている。社宮司社には水縄(田畑の測量に使われる縄)を使用後埋めたという伝説が多い。形状の類似とみずち(蛟)の転化から蛇を埋めたという伝承が生まれたものかもしれない。
「新編武蔵風土記稿」には記載がないが、同領小机村の本法寺内には蛇苦止明神が咽喉の神として祀られており、杓子の奉納が行われていた。
 この他、橘樹郡神奈川領西寺尾村の八幡社内の舎句子、久良岐郡本牧領磯子村の遮愚璽社、同郡戸部村の社宮司社は「おしゃもじ様」に属し、久良岐郡本牧領栗木村の石神社、都筑郡神奈川領猿山村の石神社などは、石そのものに神格を与える石への信仰と「おしゃもじ様」系統の両方の結合であろう。


<参考事項>
蛇苦止明神は鎌倉市大町比企谷の妙本寺(日蓮宗)の境内社が本社となっている。比企一族が北条氏に攻められて滅亡した時、源頼家の嫡男一幡と共に比企能員の娘讃岐局も自害したが、その後彼女の霊が北条政村の娘に憑依して娘が大蛇となって苦しむと告げた。讃岐局の霊を鎮めるために祀ったのが蛇苦止明神である。



(2) 咳(関)神社

・久良岐郡本牧領吉田新田(横浜市南区山王町)
「山王社 西の方にあり、村の鎮守。常清寺持ち」
 吉田新田の開拓者吉田勘兵衛が新田の鎮守として江戸の日枝神社の山王権現を歓請して創建した現在の日枝神社(通称お三の宮)である。この境内に新田の用水取り入れ口にあった堰神社を移したが、堰と咳が同音であるので、咳神社に変換したものである。
「新編武蔵風土記稿」には載っていないが、横浜市鶴見区鶴見中央の鶴見神社に関神社という境内社がある。戦前は奉納された杓子が山をなしていたとのことである。関から咳への転化した神社であろうとされている。



<引用文献>
かながわ風土記 第259号 平11.2号
阿山 克夫氏
(小祠の神々と堂庵の仏たち・14  民間信仰の神仏の傾向)


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