街道には胡麻の蠅や追剥の出るようなところもありました。また、宿場には旅人の泊まるような所や荷物の集まるようなところもありました。荷物には馬力や牛車で送られる荷物のほかに、荷籠と言う籠かきが景気の良い掛け声と共に荷物を送る、そんな組織もあったのです。大店の高価な送り荷とか、都へ上った殿様へ国許からの送り荷は、付き人の見守る中を籠かき人足の掛け声と共に先へ先へと送られて行ったのです。
 荷籠は程よい重さと大きさにまとめて二人籠とか四人籠にして送り出されました。そして、籠かき人足の先手が
「エイホッ」と、声を出すと後手が
「エイホッ」と、声を返す。それは傍から見ていても気持ちのいいものでした。
 祝い事はもちろんのこと季節の変わり目には衣装が、またその季節毎には山海の珍味や新酒などが、
「エイホッ」
「エイホッ」と、荷籠人足の肩に担がれて行きました。
 その年も北風が吹く頃になって、新酒や衣料に交じった中に塩鱈が送られてくるようになりました。都へ送られる塩鱈には役人が付いているものがあり、また特に、警護の人間まで付いてくるようなものまでありました。
 そのような荷籠はたいそう元気でまた一段と景気の良い掛け声をかけていきます。そして、人を見かけると道をあけてもらう為に更に声を大きくして
「ホイキタお鱈だ!」と、先手が声を出し、それに呼応して後手が
「ホイキタお鱈だ!」と、復唱しました。
「ホイキタお鱈だ!」
「ホイキタお鱈だ!」
「御上のお鱈だ!」
「御上のお鱈だ!」
「エイホッ」
「エイホッ」
 このようにして塩鱈と酒樽が三つ、四つの荷籠に仕立てられ通り過ぎて行きます。
 ところが、人や荷物の往来が段々とはげしくなりいろいろな仕事がふえてくると籠かき人足が集まりにくくなってきました。仕方がなくこの土地の名主や世話人は、近在の人を駆り立ててその場を凌ぐようになりました。
「ホイキタお鱈だ!」
「ホイキタお鱈だ!」
「御上のお鱈だ!」
「御上のお鱈だ!」
「エイホッ」
「エイホッ」>
 このように掛け声を張り上げて街道を行くうちにポツリポツリと雨模様になったことがありました。与助の兄さんは家の庭にもち米の籾を、広げたままにしてきたことがたいそう気になりました。そうかといって籠を捨てても帰れませんし、うっかりするとこの正月の餅を食べ損なうかもしれません。
 気がきではなく、つい
「こんちき御鱈だ!」と、掛け声をかけてしまいました。
  「こんちき」とは、この畜生という言葉をちゃかして言います。
「こんちき御鱈だ!」と、後手が応じます。
「御上の御鱈だ!」
「御上の御鱈だ!」
「こんちき御鱈だ!」
「御上の御鱈だ!」
 与助の兄さんは心の憂さを晴らすように大きな声をかけました。
「因果な御鱈だ!」「因果な御鱈だ!」
「エイホ!」「エイホ!」
「こんちき御鱈だ!」
「御上の御鱈だ!」「因果な御鱈だ!」
「御上の御鱈だ!」「こんちき御鱈だ!」
「エイホ!」「エイホ!」
「因果な御鱈だ!」
 しとしと降りだした雨雲を吹き飛ばすように、籠かき人足も面白がって声を張り上げました。
 ただ、あいにくなことにその日の荷籠には、御役人二人と警護の侍が四人も付いていました。やっぱりおかしいと気がつくともう我慢がなりません。
「おいっ、待て!」
 まず、侍が押し止めました。
「何や、聞けばおかしな掛け声。最初に掛けた人足、来れに参れっ!」
 先頭を切っていた与助は皆の目にあぶり出されます。すごすごと役人の前に出ていくと警護の人間がすぐに腰縄を打ちました。
「さて、みなのもの心して頼み申そうぞ」
 役人は何事もなかぅたように荷籠の一行を立たせると、残されたのは与助と警護の人間が一人。そして与助は町役人に引き渡されてしまいました。
 これから話はどうなったものやら、家では、年老いた親と妹が、籾を米にし、餅につきましたが、新年の餅も陰膳に備えられたとか。
 与助は二度と我が家に帰ることはなかったといいます。
古い昔の歴史には「磔ッ原」と人が呼ぶ、風が泣くのも寂しい場所がそんな街道の奥にはありました。

平成14年6月5日
蛇幸都神社委員会物語会


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