街道をたどっていくと一本の大きな杉の木がありました。村外れにあるその木には、何時の頃からか天狗が住むようになっていました。今日はその天狗の話をしようと思います。
 大きな一本杉にすみついた天狗は、里天狗と云って子供くらいの大きさの大人しい天狗でした。大きな杉の木の枝にちょこんと腰掛けて、よく西の方を見ていました。西には阿夫利山の天狗の国があり、この天狗はそこからやってきたのでした。行こうと思えば一足飛び、帰ろうと思えば一足飛びの天狗にとって十里二十里の距離は造作もないことでした。
 さて、この里天狗がその阿夫利山の天狗の国にいた頃でした。天狗の国にも大きな町がありましたから、喧嘩もありましたし町役場もありました。町役場の前には露店が並んで何時も賑わっていました。
「おい、御若いの!」
 あるとき街を歩いていると、露天で扇やウチワを商う売り子天狗が声をかけました。今しも、一本足の下駄屋を覗いていた里天狗がひょいと顔をあげると何やら見知った顔と目が合いました。
「おぅ、誰かと思えば杉の坊、ここで逢うのも百年目・・・」
 売り子天狗は滑らかな調子で売り啖呵を切ります。何とか扇子、ウチワを買わせようとの魂胆です。杉の坊と呼ばれた里天狗も役者よろしく見栄を張りながら、
「団扇、オオギは箸より重い!持って帰るも面倒よ。風だけ売るなら分けてくれ。」と、応じたのでした。
 売り子天狗はニヤッと笑うと
「風だけくれとはしゃらくせえ。色を付けてやるから持っていけ!釣りは出せねぇから覚悟しろ!」
 そう云うと、くるっとトンボを打ちながらプワッと大きなおならをしました。里天狗の杉の坊は木の葉のように吹き飛ばされて空のたかくに舞い上がりました。空の高くから見ると出臍のような富士の山と、回りを取り囲む海が静かに見渡せました。売り子天狗のおならは大層臭かったので、杉の坊は少し鼻を伸ばしてまとわり着く匂いの外のきれいな空気を吸いました。こうして、あたりに飛ばされている手頃の木の枝を枕にして、暫くはあっちこっちを見回していると、武蔵の国の一本の杉の木が目に付いたと云います。
「これは、阿夫利山の飛び杉だ。先祖がここにもおわしたか。」
 そう云って杉の木に飛び移ると一陣の風がゴォーと音を立てて通り過ぎて行き、あとに杉の坊と言う里天狗が残されていたのでした。こうして、一本杉の大木に里天狗が舞い降りてきたのです。
 さてさて、村外れの大杉に杉の坊が舞い降りてきたときちょっとした間違いをしてしまいました。枕と頼んだ木の枝を、杉の梢に引っかけて体をとどめたのでしたが、その後でうっかり手を離してしまったのです。手から離れた木の枝はあっちこっちにぶつかりながら真っ逆様に落ちて行きました。その時に蜂の巣を壊してしまったのでした。無数の蜂達は怒り狂って、木の枝と言わず草の葉と言わず襲いかかり食いつきました。杉の坊が何事かと下を見ると、わきあがる蜂の羽音にまじって昼の眠りをしていた蛍の悲鳴が聞こえてきました。逃げ惑う蛍を蜂達が追い回していたのです。「これは、これは」と、頭をかきながらすぐに助けようとしましたが壊れた蜂の巣が元に戻るはずがありません。
 こんなことがあってからのことでした。蛍の隠れどころとして一本の大杉の根の回りには蛍袋の花がいっぱいに咲くようになり、淡い香りが木のてっぺんまでにするようになったのでした。
 それからまた幾年かしてのことです。ゴウゴウと風が唸り杉の木の上のほうが吹き飛ばされたことがありました。そして、気がつくと、杉の坊と云う里天狗は居なくなってしまいました。そのうちに杉の木も枯れて朽ちてしまいました。
 それからまた何年もしたのちに、村人たちがまた杉の木を植えたことがありました。杉の木がスクスクと育ち、太平洋戦争の頃には大きくなっていたとのことです。軍隊の人が、あまり大きいので「これは、敵の目標になる恐れあり!」と切り倒してしまったそうです。今ではこんな話を知る人もなく、どこまでが本当のことかは判りません。
平成14年5月5日
蛇幸都神社委員会物語会


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