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 蛇苦止明神の跡

 「蛇苦止明神」或は「蛇骨神社」と呼ぶ名はりに人に知ら居られぬも、一本杉と呼べば何人もあの三隅耕地の中央、篠原町と境を接する杉山神社の下方に立つ、一本の鉾の雷枯れれしる老杉とうなづかれるであらう。現在は祠もなけれども明治初年まではその杉の根本に一小祠あり、蛇苦止明神と呼びなされて常時は参詣者夥しく、これを聞き知りし本法寺の先住はこれを請ひて自山に遷せり。今は有りや否や、由来として傳ふるに三説あり。
一説には住昔篠原村の蛇袋なる地に大蛇が住み居て附近の作物や人畜に危害を興へたので、村民は大挙し大蛇を退治なし、それを現在の一本杉の所にて焼き、後の祟りを恐れる心より祠を建て神に祭ったと云ふ。(篠原の蛇袋のは蛇が住んで居たからか)
又傳ふ宝暦年間(1751〜1763)にこのほとりを開墾するに當り、この土地の所有たりし岩田太郎左衛門(宝暦の土地水帳による)が所有地の境に残せしとか、或はその時村の境界を定める為、弓を射て矢の立ちし所を境となすとて鳥山村との境なる榎戸より弓を射しが、怡もその矢の落ちし所が一本杉の所なりし云々と、こはもとより信ずるに足らぬ。


<引用文献>
城郷村誌
岩田太郎と城郷青年団・著
昭和二年


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