三隅耕地と呼ばれる中に、字榎戸と言う地名の場所がありました。そこは広く開けた水田の中程に小振りの形の良い榎が一本、夏になると緑の葉を茂らせていました。後は何もない耕地なのにまるで築地の塀を巡らせた小粋な家でも建っていそうな地名で呼ばれているところです。また、なぜ広い耕地の中に古い榎の木がたった一本のこされているのかも判らないところでした。
 さて、榎戸の榎の枝がさやさやと風に鳴り、水田の稲草が甘い香りで繁る頃でした。枝の下のずっと下には古いタニシが住んでいました。年老いていたので色も灰色になり、動きは更にゆったりとして生きているのか死んでいるのかそれすらわからない程でした。
♪タニシ三尺、十日で五間、便所に行くには間に合わん…♪
 子供たちが囃し立ててよくこんな歌を歌っていました。
 それを聞いた時、
「うらやましい、実に理想的だ。」と、
 榎の枝に止まって、白鷺は首を傾げながらいいました。
「私は、一日飛び回り歩き回ってやっと食い長らえているのに、あなたはたったの三尺、私が三歩あるく距離で一日が暮らせる。なんと羨ましい事でしょう。」
 古タニシはぶくぶく泡を吹きながら独り言のようにいいました。
「これでも急いでいるんだがね。周りは全部食べ物だらけでどれから食べたらいいものやら、えらいこっちゃ、腹がいっぱいでヒンドイコッチャ。」
 実際高望みをしなければ充分に幸せでした。
 ところで、この古タニシのそばに可愛い子タニシが遊んでいました。おっちょこちょいで自分勝手でだけど若々しくて、活発な意見をハッキリといいました。その子タニシは大空を自由に飛び回る白鷺が大変に羨ましかったのです。耳をそばだてて、白鷺と古タニシの話を聞いていました。
 白鷺はいいました。
「翼があれば大空を飛び、思いのままに何処へでも行けるさね。タニシさん、この翼をあなたに差し上げようと思うがね。」
「それもまた嬉しい事だがね。これもまた気楽な事だわね。腹が一杯で眠りたいがね。」
 古タニシはそう言ってふぃと殻の中に首を引っ込めると、すぐにイビキをかき始めました。
 古タニシが眠ってしまったので、子タニシは榎の枝の下に行き話しかけました。
「白鷺さん、その翼は私にでも譲って頂けるのですか。朝には大空を遠く飛び去り夕べには遙か彼方から舞い戻る、その白い翼を譲って下さるのですか。」
 白鷺は、こんな物欲しげな子タニシを相手にする気はありませんでした。
「まぁ、お止めなさい。変わった世界で苦労するより自分の世界で生きることです。空を飛んで何が楽なものですか。」
 そう言うとピッと糞をして、榎の枝から飛んでいってしまいました。
仲間の子タニシはそんな鳥の糞がご馳走でしたから、大喜びをして糞にまみれ嬉しさに転げ回っていました。才走った子タニシには何とも侮辱的な暮らしでした。
 二三日してからのことです。古タニシがうとうとしていると子タニシが側に来て話しかけました。
「白鷺さんは何故あなたに翼を差し上げようと言うのですか。」
 古タニシはムニャムニャと答えました。
「それは私がこの世のものでもあの世のものでもなくなりかけているからだろうよ。この世にあるもの全てが点になり無になり、そこからまた何かが生まれてくるだろうからさ。」
「お願いしたら私も点になり無になり、今度は白い翼を持った鳥として生まれ変われるのですか。」
 古タニシは目をカッと見開いて鬼の様な顔になり、次には力なくやさしい顔になり言いました。
「おまえに与えられた姿の良いところをお前が見つけてやれないのは悲しいことだ。」
 子タニシは泣きながら言いました。
「私は充分過ぎるくらい自分を悲しみました。そうしてお願いするのです。」
 聡明なる友よ、あなたは咎めるだろうか。若者の憧れとか夢とか希望とかを、あなたは捨てさせることをするだろうか。
 可愛い子タニシの言うところは誰でも一度は考えるところではありませんか。古タニシは黙って目をつむりました。
「今晩、白鷺が眠っている枝の下においで。そこでお前の望みが叶うか試してみよう。」
 子タニシはパッと目を輝かせて、飛び上がって喜びました。古タニシは更に深い泥の中に心を沈めていました。
 その夜は、月の光が榎も白鷺も群れ繁る稲草も黄金色に染めて、更に幾千の星の光が音を立てて降り頻っていました。そのまぶしさに子タニシは古タニシの大きな天蓋の下に入り込むと目を閉じて、暫くは星の降る音を聞いていました。すると、古タニシの天蓋がどんどん大きくなっていくように思えました。体が水から離れて天に吸い上げられるようでした。
 こうして目を開けたときには子タニシは金色の鳥になっていました。更に朝日が上る頃には大きくなって、紛れもない真っ白い翼の小鷺になっていたのでした。
 足下の水の中には古タニシがブクッブクッと泡を吹き、その側に昨日まで白鷺だった小タニシが古タニシの泡に乗って遊んでいました。やっぱり黒く汚く泥まみれでした。
 小鷺は大きく羽ばたきをすると青空に弧を描きながら舞い上がっていきました。そして、川沿いをたどり山裾をかすめて、あちこちの餌場を巡って一日を送るようになりました。
 その年の夏も過ぎ秋風が立つ頃になると、螻蛄や川虫や泥鰌達は土の中に潜って眠りにつきます。小鷺になった小タニシにも初めての木枯らしが吹きつけるようになりました。餌場を巡ってもなかなか餌が見つかりません。ついこの間までの、嬉しくて力強くて軽々しかった羽がなんとも重くなってきたのでした。
 その日もすっかり葉っぱを落とした榎の木の枝にうずくまっているとき、ふっと下を見るとかって白鷺であった小タニシがまだ土に潜れないで遊んでいました。それは小鷺に食べられるのを待っているようではありませんか。まことに腹の減った小鷺には、それを食べるしか考えられなくなっていました。かっての自分であった子タニシに幾らかの躊躇を覚えましたが、それとて大きく羽ばたき足が榎の枝から離れたときには落ちていく加速度を押し止める何者にもなりませんでした。
「やめろっ、やめろっ。」
 土の中から古タニシの声を聞いたようではありました。嘴でついばむと、小さい殻のなかでタニシがじくっじくっと泣いていました。けれど、そんなことは毎度のことなのです。
 こうして小鷺はかっての自分を食べてしまいました。
なんとも悲しい夜でした。その晩はたくさん泣いたと云います。そしてあくる日よりもう泣く声もかれて榎戸の小鷺は泣かなくなってしまいました。誰とも話さずただ一羽、物思いに更けるようになりました。どこかで、友達も親兄弟もなくポツンと一羽でいる、赤い目をした白鷺を見かけたらそれはもう、涙を枯らした榎戸の小鷺に違いありません。
 えっ、今の榎戸ですか、そこは新横浜のビル街となってすでに小鷺の帰るところではなくなりました。榎戸という小粋な地名も忘れ去られて行くばかりです。
平成14年7月15日
蛇幸都神社委員会物語会


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