新編武藏風土記稿卷之六十七 橘樹郡之十 篠原村 篠原村は郡の西の方にあり郷庄の唱を傳へずそのかみは篠原郷など唱へしと云へど、何村と云べきを何郷と記したる事は、古は多く見えたれば夫等の類なるべし、村名の起を尋るに土人の傳ふる所は、壽永二年加賀國篠原にて平惟盛と木曾義仲と合戦有し時、惟盛の敗卒遁れ来りて此所に住りしかば、後自ら一村落をなせしより村名とせりと實なりや、思ふに只篠原と云ふよりかかる説も發りしと見ゆ、又傳ふる所はかかる干戈の中にて移りしかば、あたる年の正月も餅をつき新年を賀する事無りき、共遺例とて村民今も正月は餅をつかず赤飯をなして祀へりと、「小田原家人所領役帳」を見るに三郎殿三十五貫文小机篠原代官金子出雲とあり、三郎は北条影虎が事なり、此地は江戸日本橋を距ること七里、村の四境をいはは東は菊名大豆戸の二村に境ひ南は六角橋村或は神奈川宿に接し、西は岸の根島山の二村に向ひ北は都筑郡の内新羽村に交り、又郡内大豆戸村にも及ぶ、村内に地頭林と云ふもの一所二丁一段餘、百姓林三十箇所所所に散在し、いづれも松杉の外雑木生茂れり合せて八丁三段六畝餘なり、民家百一軒、土性陸田の方は黒土砂土にて水田は野土黒砂土交り、水田多く陸田少し、されどややもすれば早損の患あり、延寳の頃は酒井河内守が所領なり、この頃より御料私領うち交りし所となりて、同き年の七年に酒井氏此地を檢せし事あり、寳暦四年岩手伊右衛門、同九年志村多宮、天明四年飯塚伊兵衛檢地をなせしと云、酒井氏は何の頃か所を替賜り、正徳年中新見伊豫守へ賜れり、御料は御代官の遷替も許多ありて今は大貫次衛門支配所となり、此外新見七右衛門の知行交れり、 高札場 村の中央にあり、 小名 原田町 西方の耕地を云、 谷田 南の方にあり、 新田 東方なり、 會下谷 南の方を云、村内東林寺と唱へり、其門前ゆへ此名有しと、昔ここに會下寮ありしならん、されば寺の名をもかく呼しにや、東林寺の條井せ見るべし、 蛇ふくろ 西方の耕地なり、 坊街道 會下谷の邊なり、彼會下寮へ僧侶の往来せし所ゆへかく唱へりと云へとうけがたし、 表谷 東の方にあり、 堀の内 東方なり、 富士塚谷 東北の間を云、 榎本谷 同じあたりにあり、 城山 北方の村境にあり、金子十郎の城跡なることは後に出せり、 鶴見川 村の北の方當郡と都筑郡の境を流る、鳥山村より入り東方大豆戸村に通ぜり、村内を流るること四丁川幅六間許、此川の側に大豆戸村の地入あへり、 鳥山川 村の西方を流る、岸の根村の方より来り、當村と鳥山村の境を流る、是も大豆戸村に入て鶴見川に合せり、 根川 川と云べくもあらず小溝の堀なり、是も岸の根村より入鶴見川に合せり、 土浮川 村内所々の悪水流れあつまり、小名原田町の邊にて、一條の小流となり、村内にて鳥山川に合せり、 逆水除樋 北の方にあり、長十四間半高二尺六寸横一間、 溜井 小名會下谷にあり、村内の用水となれり、 八幡社 小名會下谷にあり、鶴崎八幡と號す、其名づけしいわれを知らず、わづかなる祠にて二間四方の覆屋あり、鎭座の年暦を傳へず、この所は村内若宮八幡社の舊地なりと云、村内東林寺のもち、 若宮八幡宮 例祭十一月二十日、本社東向拜殿をつくりかけ二間半に三間半、本地正観音坐る像四寸許なるを安ぜり、前に石の鳥居あり村内観音寺の持、 観音寺 村の北にあり、新義眞言宗神奈川金藏院の末、八幡山と號す、天正十八年の開基なる由寺僧の傳へなり、されど當寺の過去帳に、權大僧都覺天正十壬午年十二月十七日と云を載たり、もしこの人など開山ならんには、寺僧の傳へし年代も極めて疑ふべし、本堂五間に六間、本尊十一而観音坐像六寸ばかりなるを安ず、 長n 古義眞言宗本願山とす鳥山村三會寺の末、開山の年暦を知らず、中興せしは慶長十六年とのみいひて其僧の名をば傳へず、客殿六間に七間、本尊不動を安ぜり、外に薬師一くを客殿に置り古色にて長一尺五寸、此像は昔の代官金子出雲が持たりしと土人云り、 東林寺 禪宗曹洞派天東山と號す、相模國高座郡大庭村宗堅寺の末、開山周巖大永二年五月五日寂せり、この寺古はさかんいして境内も廣く、八十三石の御朱印地にて、寺號は會下寺と唱へしに、いつの頃か囘祿にかかり彼御朱印を燒たれば、今はなく寺勢も大に衰へたり、この寺の門前を會下谷と名づけしは、この會下谷の名ありしゆへなりと、此事小名の條にも辨ぜり、客殿七間に六間、本尊十一面観音坐像一尺許、この像の腹籠りに行基の作の観音を納めしにかの囘祿のをりこの像庭前の柿樹のうろへのきてその災を免れたまひしなと今も靈驗いちじるしきと云へり、門は東向にて天東山の額を掲ぐ、墓所の入口に善光大禪定門□永十一年八月十一日としるし、また眞光一如居士天正二年十月十五日とえりたる五輪の墓あり、村民九右衛門が先祖の墓なるよし、九右衛門は搏c氏にて、先祖は彼篠原合戰のをり此地へのがれ来りしと云へば年代大にたがへり、いはんや篠原合戰のことは始に載たるごとくたしかに考ふべからざるをや 閻魔堂 村の東方荒井坂にあり、堂四間四方閻魔の像長四尺村内長n宸フ持、相州鎌倉新居閻魔は世に知れる所なり、故に堂邊の坂を後世かく名づけしにや、 大塚 村の東畑の中にあり、高一丈許鋪の徑四間許、この塚の傍をほれば、たまたま永樂銭などを得る事あるよし土人いへり、いかさまにも古塚なるべけれど、何人の塚なることは今より考ふべからず、 興五郎塚 大塚のあたりにあり、故老のものがたりにここは往昔村民興五郎と云者入定せし所と云へり、 古城跡 村の北の方にあり、金子十郎家忠の城趾なりと云、家忠居住の地は多磨郡金子村の外にも所々にあり、恐くは金子氏か子孫のとりてのあとか、又は當所の代官金子出雲か壘址などゝいはゝさもあるべきか、今見るところ僅に四五てからほりのかたちも残れり 舊家者百姓九兵衛 金子氏にて世々ここに居れり、北條氏の家人金子出雲の子孫なり、その先祖は金子十郎家忠より出るよし傳れども、舊記を失ひたれは定かならず、 <引用文献> 大日本地誌大系9 新編武蔵風土記稿 第3巻 雄山閣 / 発行 昭和45年10月15日
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