新編武藏風土記稿卷之六十八 橘樹郡之十一 神奈川領 岸根村 岸根村は郡の西の方にて都筑郡の境によりてあり、江戸日本橋より行程七里、古は小机庄の唱ありしよし今はク庄共に名を失へり、村名の義を尋るに此邊みすま耕地といへる水田あり、土地打ひらけ水も多くただへてよのつねの水田とは其さま違へり、それをいかにと云に古は此邊惣て沼なるによりてしかりと云、當所は其沼の岸にそひたる根なりしゆへこの名を得たりと、此村四方の界域も狭ければ、往昔は小机と一村なりしやなど土人はいへど、其しるしとせることはなし、東は篠原村南は六角橋片倉の二村に接し、西は三枚橋鳥山の二村にて北は又篠原村に隣り、東西壱四五町南北八町民戸二十八軒、土性は黒土なれども粘りありて眞土に似たり、水田及陸田をなへていはば等分なり、村内に古の鎌倉街道といへるあり、みすま耕地の方よりいり、片倉村の方へ通ぜり、此村舊きことは惣て傳へす、延寶七年檢地せしよし、其時の水帳を見るにiェ次兵衛、倉本市兵衛、本多六兵衛、半田作兵衛、後藤勘兵衛、小林五右衛門といへる六人の名を記したり、是其時檢地を承りし人の手に属せしものなるべし、元祿十一年八月此所を諏訪惣十郎へ賜はり、それより續て今も子孫中之助が知行なり、 高札場 村の中央にあり、 小名 清水谷 南の方なり、 廣町 東よりにあり 内田 中央なり、 宮下 東北の間を云、 大蛇臺 南寄 原田 南の方なり、 丸山下 南よりなり、 關下 西の方なり、 深どぶ 北の方、 島どぶ 北の方なり、 榎戸 北方を云、 山榎 北より、 砂田 中央なり、 C太塚 C太といへるは人名なるかしからんには夫等の墳にてもありや、いはれを傳へず、 琵琶橋 西北の間川崎道にそひたる用水堀に架せり、わづかに丸木二本をもてわたしたる橋なり、黒人の云往古此處は鎌倉海道にて、其頃は今よりもいささかの溝なりしに、折節盲人の来りしが渡るべき橋なかりしゆへ、負たる琵琶をとり出し、是を便に渡らんとせしが誤り落て爰に死せしかば此名をおひたらんと、又云さにはあらず上京を志ざせし盲人の、此所にて賊の為に害せられけるなりと、されば携へし琵琶を賊のここへすで去しより起りし名なるにや、今其たたりなりとて此橋を馬の渡る時は怪我ありと云、 用水路 村の西の方に堰あり、長二間幅八間、鳥山村より引来る流なり幅九尺許、是を所々の水田に引そそぐ、 杉山社 東北の方境の山の上にあり、隣村篠原観音寺の持、社は二間に三間南向、是より四五町を隔て石の鳥居あり西南に向へり、爰より社までの中間にも木の鳥居を立、按に杉山神社は式内の神にして、古より近ク都の地に坐すときは爰へ勸せしなるべし、當社に寛永十八年六月の棟札あり、この社も観音寺のもちなれば爰へ納めたるならん、當社にそのとき始て勸せしが傳を失へり、 山王社 村の東山王にあり、社前に木の鳥居二基を立村内貴雲寺の持、 蛇骨神社 北方の田間村境にあり、相傳ふ篠原村の内小名蛇袋といへる所にて蛇を殺し、持来たりてここへ埋め、その跡へ此祠を建たりと、又の傳へに當村開闢のをり弓を射て矢の落たる處を村境とせんと射たりけるに、此處へ矢の落たれば爰へこの祠を造れりとも云、是もうけがたきことなり、 貴雲寺 村の西にあり、曹洞宗小机村雲松院の末岸雲山と號す開山玄室頓慶長十三年六月十二日寂す、客殿六間半に四間、本尊薬師の坐像長八九寸、この寺庫裡の背後なる山の半腹に横穴あり廣さ一間四方許、此邊にて是を矢倉と云、其ゆゑんをしらず、 墳墓塚六箇所 鎌倉古街道の南寄の畠中に並べり、圓徑二三間もしくは一間許、何人の塚なりや傳へを失へり、 <引用文献> 大日本地誌大系9 新編武蔵風土記稿 第3巻 雄山閣 / 発行 昭和45年10月15日
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